その他

 残余地以外の路上観察物件を紹介。


重層的空間

 土地不足に日々悩まされている東京の街。そこでは尺度や形状が同じというだけで、用途の全く異なる空間同士が融合してしまうという怪奇現象が日常茶飯事に起こる。倉庫の屋上にテニスコートが融合し、高速道路の下に児童公園が融合し、そしてガードレールの親柱には、空き缶が融合する。

 右の親柱を左の親柱と見比べて欲しい。これは断じて貴方の目の錯覚などではない。空き缶とガードレールの重層的空間の発見である。白く着色された外観の奥に、飲み口の上側にある2つの”凸”部分まで確認できた。これは平成生まれの方はご存知ないであろう縦長でタブが取れるタイプの缶であり、少なくとも15年以上前からこの状態であったことが窺える。そういえば他の路上観察サイトでも、排気筒の風車がミラーのポールに融合して20年間そのままだという物件が紹介されていた。
 そこに何の意味があるのか、誰も分からない。ただ一つ分かるのは、「尺度が同じ」ということだけだ。重層的空間と超芸術トマソンは紙一重である。


犬のチンコは飼主が必ず後始末をしましょう

 後始末するハメになる前に、早めに去勢手術を。

(あっ!タコ型滑り台が…)

  「犬の(チ)ン(コ)」。素晴らしい連想力だ。「ウンコ」を一文字捩って「チンコ」にするのは大人でも分かるが、どうして「フン」が「チンコ」になるのか?。もう下ネタならなんでもいいという子供ならではの精神がそこに漲っている。
 尚、当サイトではビジターに何と思われようとも、決して伏せ字を使用しない。路上をありのままに捉えるのが孝現学の基本だ。と言いたいところだが、実際には路上の現実に圧倒され、もう伏せ字にする気力すら残っていないからだ。いざまともな路上観察を始めると、こんなものしか発見できない自分が情けなくなった。これからもう二度とハリガミ観察なんかしないと、固く心に誓ったのであった。


沈黙

 「町角広告塔」の交差点付近に、こんな物があった。

 ここの街道の歴史にまつわる史跡だが、何の説明書きも設置していないところがいかにも八王子市らしい。隣の日野市はこういうことは実にこまめにやっているのに。「俺のことを知りたきゃインターネットで自分で調べろよ!」とでも言っているかのようだ。その野晒しな姿が路上観察者をそそらせるのだが、新興住宅地の片隅に無言の史跡がただ一つ潜んでいるその景観はあまりにもブッキラボーである。中には使われもしない雨水が溜まっているので、そこから無数の蚊が涌いていることだろう。しかもすぐ傍にバス停がある。バス利用者の血を吸う恐怖の史跡。


三日坊主

 多摩丘陵の斜面に形成された住宅団地をブラブラ歩いていたら、とても投げやりな風景に遭遇した。

 いかにも「や〜めた」という感じがする。ショベルカーまでそこに乗り捨ててあるのが高ポイントだ。
 このような場所に立地する住宅団地の周囲は、普通は崖崩れが起こらないように擁壁で固くガードされているものだが、ここは擁壁を作るのを止めてしまったらしい。住宅団地の規模縮小の形跡が、目の前にそのまま現れた。近隣の小中学校はこれを「高度成長期の傷跡」として、社会科見学の対象にしたらどうだろうか。

 こちらも同住宅団地内の投げやりな風景である。よっぽど入居者が少なかったのだろう。この基壇をリサイクルして宅地開発をできないものだろうか。
 この写真だけ見るとゴーストタウンに見えるが、周りはごく普通の住宅地だったりするのがまた怖い。


カスプの侵食

 神社の屋根,城の石垣,鳥居の笠木など、日本の建築には独特の曲線を持つものが多い。これは木材(特に竹)を反らした時に生まれる「カスプの曲線」というものであり、毛筆文化,木造文化が沁み込んだ我が国の日常的な景観要素となっている。幾何学的な円と線をベースにした西欧のゴシック建築には、このような有機的な曲線は見られない(水津,1987)。

 写真は長方形の幾何学的な看板が、「カスプの曲線」に侵食を受けている光景である。看板を切り抜いて上手くはめようとしたものの、この微妙な”反り”に合わせることができず、結局看板の一部が歪んでしまった。ちなみに、このように景観要素Aを縁取る景観要素Bが、Aの形状に合わせて丹念に加工される現象を「エコダ」といい、超芸術トマソンの一種に認定されている(赤瀬川・藤森・南,1993)。


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